心の垢離

さしずめ文章の家庭菜園のようなもの。

私が嫌いな言い回し2021

せめて月イチ更新くらいのペースでやっていきたい。私です。

 

久しぶりの記事が「何が嫌いかで自分を語る」というなんの生産性もない内容でいいのか。

しかし当ブロゴの理念上、どこが気に入らないか考えることには意味があるはず……!

 

よろしくお願いいたします。

 

#1 よき(文末表現)

(例)「GCD中に激成魔使えてよき」

 

普通に言えばいいのにシリーズ。すまん、それって「よい」「いい」でよくね?

なんかこのちょっと奇をてらってる感が鼻について仕方ない。自分でも何がそんなに気になるのかわからない(別に流せばいい)のだが、こういうのは理屈ではない。目にするたび反射的に背筋が痒くなり、生理的嫌悪感を催してしまう。我ながら勝手なものだ。

あまりにも嫌いすぎてこれ以上言及したくない(趣旨の崩壊)

 

言うまでもなく以下の項目全てに当てはまることだが、こうした言い回しの使用者に対して中止を勧告し撤回や謝罪を求め断固戦う意思を表明するものではもちろんない。ただ個人的に嫌だなあと主張したいだけである。「くっさ」「しね」と感じるだけである。

 

#2 皆んな

(例)「皆んなはどう思う?」

 

驚天動地である。何がどうなってこんな変換が生まれてしまったのか。「皆」か、あるいは「みんな」ではないのか。それとも知らないだけで、「み」という読み方があるのか。だったらそう言ってくれ、私が間違っていると言ってくれ。どうかお願いだ。そもそも変換はどうしているのか。環境によっては出るのか。

というような葛藤に毎度襲われる、仮に嫌がらせでやっているとしたら効果抜群の表現である。

 

主題から少し外れるが、報道等でよく使われる漢字とかなの混ぜ書き(「まん延防止」とかそういうのである)が気に食わない理由として「パッと見たときの理解が遅れる」「単純に字面がダサい」「どうせお前は漢字読めないだろうからと言われているように感じる」(言われていない)ということがある。文章を書く際にどこまで漢字を使いどこからひらがなを使うのか(開き具合)は実際難しい問題なものの、熟語・単語の中でそれが統一されていないのは変だろう、という懸念が拭えないわけだ。

 

このことを踏まえてもう一度見てほしい。「皆んな」である。

 

ダサくはないだろうか。あとこれは気のせいかもしれないが、普通に書いた場合より一瞬理解が遅れるというか、視線がつまずきはしないだろうか。

さらに、こうした変換を使う側はどうとも思わないのか。神経を疑う、とまでは言わないが、どうしても意図があって「皆んな」でなければ駄目なのだ、「皆」「みんな」とは明らかに使い分けているのだと、確かな信念がないのならば改めていただけないだろうか。

はっきり言うが、私の前でそういう言い回しをしてくれるな。

 

しかし実際、このワードが使われる文脈はたいてい平和なものである。私も好きでそんな中へ割って入って上記のような主張をぶちまけたいわけではない。しかし考えずにはいられない。

其んな呪われた表現なのである。

 

#3 見える化

(例)「工場内の危険を見える化しよう」

 

普通に言えばいいのにシリーズその2。すまん、それ「可視化」でよくね?

現場猫の世界やあなたのお仕事によっては頻出の概念であろう。いや概念はいいのだ。危険は見えるようにするべきなのだが、どうしてその表現なのだ。

 

以前、どうしても納得できずに可視化との差別化について検索したことがある。

するとまあ、いかがでしたかブログの亜種みたいなページが訳知り顔でニュアンスの違いを説明してくれたわけだが、とんだブルシットである。

同じに決まっている。

なんなら「可視化」が先にあるのだから、本来生まれてくる道理のなかった忌み子とすら言える。

 

生まれた経緯について考える。

・カシカというと聞き慣れずパッと意味を取れないから、言葉は悪いがアホでもわかるように噛んで含めた言い回しをするようになった(実用性重視だよ説)

・何らかの別のカシカとの差別化のため(市立と私立だよ説)

・新しい言葉を生み出したかった(傲れる創造主だよ説)

 

最後の方かなり投げやりだったが、実際市民権を得てしまったものは仕方がない。

今日も舌打ちしながら見える化に励む私なのであった。

 

#4 ゲリラ豪雨

(例)「湿った空気の影響で大気の状態が不安定になるため、ゲリラ豪雨等に警戒してください」

 

傲れる創造主だよ!

厳密には同一でないらしいため「それ夕立でよくね」とは言わないが、報道関係の業界は発信力があるわけだから、安易に造語を流布することについてもっと慎重に考えてほしいものだ。さっきのまぜ書きの話と同じである。

 

#5 三点リーダもどきたち

(例)「、、、」「。。。」「・・」等(数もバラバラなことが多い)

 

まず「……」と「…」をふたつ重ねる形が絶対の正義ではないと思う。

しかし、句点や読点をやたらに重ねたり、あまつさえ「、」で文章が終わるのはやはり変ではないかとどうしても考えてしまう。変というか、記号の使い方として適切なのか。詳しい人に教えを請いたい気分だ。

事ここに至っては「お好きになさって」と思わないでもないけれども、やはり反射的に「ムムッ」となる意地の悪い私がいる。誰も得しない悲しい世界である。

 

おしまいに

・好き勝手述べたが、私の言葉遣いもめちゃくちゃな点が多々あることと思う。

思うが、いまのところ私なりに基準を持って使っているわけであり、仮に間違いがあれば(指摘を受ければ)反省し改めたい。

 

・私の中でも「伝わればいいじゃん」「でも日本語の情緒ってあるじゃん……!」と未だに割り切れない部分があり、その葛藤がずっと不快だったので吐き出して形にした。他にまだあれば追記します。

 

・こういう話題になるとよくあるのが「言葉は変わっていくものだから」とかいうフワッとした主張である。結論としてなんら異議を挟むものではないが、それを言ってはオシマイというか、はっきり言えば思考停止ではないだろうか。

自分自身が触れて育って日々使う言葉について、それぞれの意見を伺ってみたいものである。